コラム

模倣や盗用と専門家の常識と

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前回のエントリーからだいぶ時間が経ってしまったが、その間にも様々な世の関心を集める話題や出来事があった。つい先日までは憲法改正の是非を絡めた安保法案に関する問題と新国立競技場の建築費の問題、そして今が旬と言えるのは、オリンピックのエンブレム関連の問題だろう。

エンブレム問題についてのこれまでの経緯の詳細は報道されているとおりであるが、この問題の難しいところは、どこまでが類似かそうでないか、どこまでが模倣や盗用か、ということの明確な判断基準や線引きが主観的で曖昧なところであろう。類似かそうでないかについて言えば、あのエンブレムをベルギーの例のものと似ていると思う人もいれば、そうでないと思う人もいるということである。そこに厳密な意味での正解はない。

そして模倣や盗用かは、さらに基準が難しい。これだけ情報が世に溢れている時代に、意識的にであれ無意識的にであれ、何らの先例も参考にしないということはありえないだろうし、逆に全ての先例を調査して模倣や盗用であると万人からクレームを受ける可能性を完全に排除するということも、また不可能に近いことだろうからである。

この問題については、いわゆるデザインの専門家から業界関係者としての意見も出されているようであり、大まかに言えばその趣旨は、デザイナーとして先例を参考とすることはどんな場合でも何らかの形で行われているものだとか、チームとして作業する場合には末端のスタッフの作業まで全て監視することはできない、といったことのようである。そして新国立競技場の問題についても、いわゆる設計の専門家から、単にあのデザインの外観や建築費の高騰だけを槍玉に挙げて批判するのは現実的ではなく、それまで長期間に亘って地道に積み上げてきた議論や検討の内容を考慮した上で現実的に採りうる最善の選択肢を選ぶべきであるとか、発注者側に要件とコストの両方を睨みながら適切に依頼するという視点が欠けていたといったようなコメントがなされているようである。

もとより私は、上記の問題で批判の対象となっている方々を擁護するつもりも、逆にこれ以上さらに批判に加勢するつもりも毛頭ないが、ここで出されている専門家としての視点については部分的に共感できるところがある。

「○○に関する契約書を、雛形的にチャチャっと作ってもらえませんか。」「この契約を検討して、ザッと問題点についてコメントをいただけませんか。」法律実務家であれば、一度や二度はこのような依頼を受けたことがあるのではないだろうか。全ての取引に通用する一般的かつ万能な契約書などはありえず、また個別具体的にその時に問題となっている取引や事案の背景を検討することなくこのような依頼を処理することは基本的にはできないのであるが、そのようなプロセスを経ることなくいきなり成果物に辿り着くことができると考えている依頼者は、思いのほか多いという印象がある。

我々を含めた職業専門家の多くが求められるのは最終的には何らかの成果物を完成させることではあるが、その完成そのものよりも、そこに辿り着くまでの検討のプロセスの方に圧倒的な時間と労力を掛けている(又は掛けなければならない)のが実際であろう。出来上がりはわずか数ページの契約書やメモであるとしても、その過程で検討された、又は検討されたが採用されなかった内容は、その何倍にも及ぶのが通常である。が、これらのことは我々法律家にとっては常識であっても、もしかするとなかなか理解してもらえないことなのかもしれない。

今はインターネットの発展もあり、そのようなプロセスを排除した外に見える物のみを対象として、不特定多数の人が、安全地帯から集中砲火のように批判することが可能となった時代である。そして場合によっては、マスコミもそれを煽るかのように分かりやすい部分だけを取り上げて報道する傾向があるようにも見受けられる。もはや、そのような時代であることを嘆いてもしょうがなく、むしろ、専門家にはそういった自らにとっては常識であることでも丁寧に説明して理解してもらうようにする努力が、自分も含めた一般人には専門家にしか分からない領域があるかもしれないことに思いを馳せることが、そしてマスコミにはそういったことをできる限り分かりやすく紐解いて報道する努力が、それぞれ求められる時代になったと理解するのが正しいのかもしれない。そういった様々な方向からの歩み寄りにより、これまでのようなことが今後は繰り返されなくなることを、切に願う今日この頃である。

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